伊賀上野城

別名 白鳳城  付近住所 三重県上野市丸之内  現在- 
2009/8/17 天守・案内板アリ 日本城郭大系


藤堂高虎 上野城の沿革
 伊賀上野城は、天正伊賀の乱(1581)の後、大和郡山から移った筒井定次が三層の天守を構えたのが最初である。定次が改易の後、慶長13年(1608)伊賀伊勢の領主として伊予から移封された藤堂高虎が筒井故城を大改修して築いたのがこの城で築城の名人と評された高虎が自ら縄張りをし濠を深くして日本一の高石垣で囲み梯郭式の堅固な城郭とし五層の天守閣を築いた。
 ところが竣工直前、慶長17年(1612)暴風雨のため天守が倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方の滅亡と武家諸法度による城普請の禁止により城は再び建てられることなく300有余年が過ぎた。
 現在の天守閣は昭和10年(1935)川崎克氏が私財を投じて高虎の築いた基台に桃山建築の粋をあつめて再建したもので、わが国最期の木造天守閣である。
 碧緑の上に見える城郭の美観は恰も鳳凰が翼をやすめる安らぎを思わせ白鳳城の雅名もある。

 慶長13年(1608)8月、藤堂高虎は、伊賀の国10万石、伊勢の国の内で2万石に移封となった。
(のち32万3954石余となる)
 移封は、徳川家康の信任が厚かったのと、紀伊や大和の反勢力の押さえと築城の名手でもあり、目前にせまる豊臣家討伐に備えたもので、慶長16年(1611)正月、上野城の本丸を西に拡張、高さ約30メートルという高石垣をめぐらした。
 建設中の五層の天守閣は、慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊、その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣と徳川方の勝利に終わり、幕府は諸大名の城普請を厳しく禁止したので上野城の天守閣は再建されなかったが、伊賀の国の城として明治まで城代家老を置いて存続した。
 現在の天守閣は、当地出身の政治家川崎克氏が、熊野の山林家奥川吉三郎等の協力を受け、また自らが愛蔵する古美術品を売却して復興資金を調達、昭和10年(1935)10月18日に落成、伊賀の産業陳列館として「伊賀文化産業城」と名付けられたが、優雅な姿から白鳳城(はくほうじょう)と呼ばれて親しまれてる。

     

HOME